2010年8月2日月曜日

宗教


ユダヤ教
 旧約聖書には『ノアの方舟』という有名なお話があります。これは、無信心な人間に怒った神が大洪水をおこし彼らを滅ぼそうとしますが、ただノアとその家族だけが助けられ、この後のすべての民族の祖先と祖先となったという物語です。

 そのノアの子孫にアブラハムという人物が出てきます。アブラハムは神によって「カナン(パレスチナ)の地に行け」と命ぜられます。アブラハム一行は神の指示に従いカナン(パレスチナ)にたどり着きます。彼の子孫は、その後やむなくエジプトへ移住しますが、エジプト王国のきびしい支配を受けることになってしまいます。

 その時立ち上がったのが預言者モーゼでした。モーゼは「神の約束されたカナン(パレスチナ)へ戻ろう」と言って、仲間を引き連れエジプトを脱出します。これを「出エジプト」といいます。エジプト軍に追われながらも神の力によって奇跡的に脱出できました。また、この時、モーゼは神と約束を取りかわしました。その結果、神から授かった掟が「十戒」です。後に成立するユダヤ教の教えの中心となるものです。

 モーゼ一行(イスラエル人)は、カナン(パレスチナ)にたどりつきましたが、そこには既に別の民族が住んでいました。イスラエルの人々はその地を奪い返すためそれらの民族と戦争を起こしました。そしてついに念願の国家を建設することに成功したのです。これを「ヘブライ王国」といいます。

 この国はダヴィデやソロモンといった国王の時代(紀元前1000年頃)に黄金期を迎えましたが、やがて分裂し(イスラエル王国とユダ王国)、そしてアッシリアや新バビロニアといった大国によって攻め滅ぼされてしまいます。特に、新バビロニアがユダ王国を滅ぼした際、そこのイスラエルの人々を強制的に首都のバビロンへ連行するといった事件が起きています。これを「バビロン捕囚」(紀元前586年)といいます。

 しかし、捕らわれの身となったイスラエルの人々も、50年後にはペルシア王国(アケメネス朝)が新バビロニアを滅ぼした際に帰国を許されることになりました。

 パレスチナに戻ったイスラエルの人々は、自分たちの神への信仰の正しさを確信し、教団を結成しました。このようにして成立したのがユダヤ教なのです。
 
キリスト教
 イスラエルの人々が故郷に帰ることを許されたといっても、独立国家の建設を認められたわけではありませんでした。ペルシア王国の次にはアレクサンダー大王、そして最後にはローマ帝国といった大国の支配を何百年にもわたって受けることになります。

 このように続く民族的苦難にあってもイスラエルの人々は自分たちの信仰を捨てることはありませんでした。それどころかいつかは「メシア」(救世主)が現れて、自分たちを解放してくれると信ずるようになっていきました。その考え方の根底にあるのが「選民思想」です。イスラエルの人々は神に選ばれて契約を結んだ唯一の民族としての誇りを持っていたのです。

 紀元前後頃、このパレスチナにイエスが誕生します。彼はユダヤ教徒として育ちましたが、当時のユダヤ教のあり方に疑問を持つようになっていきました。そして本来の神との契約に立ちかえり、すべての人間は神の愛によって平等に救われると説くようになったのです。

 このことは厳格なユダヤ教徒の反発を招くことになり、イエスは反乱の罪を着せられ、最後には十字架につるされて処刑されてしまいました。

 しかし、「死んだはずのイエスがよみがえった」という噂が人々の間に流れます。かつての弟子たちは「イエスこそが神によってつかわされた真のメシアである」と確信するようになり、キリスト教が成立しました。この後、キリスト教はこれらの弟子たちによってローマ帝国内に広められていくことになります。
 
イスラム教
 最後にイスラム教についてお話しします。イスラム教が生まれたのはアラビア半島で、ユダヤ教やキリスト教が発生したパレスチナと比較的近いところにあたります。ここの住民はアラブ人です。

 アラブ人はイスラエル人とは同系の民族で、「ユダヤ教」のところで出てきたアブラハムの子孫とされている人たちです。もともとは遊牧生活を中心に生計を立てていたのですが、次第にラクダを使ったキャラバンで貿易を行い、経済的な繁栄が始まるようになりました。

 しかし、それとともに部族間の連帯が失われ、富める者と貧しき者に分かれてしまい、対立や戦いが起こるようになってしまったのです。

 この状況の中で登場したのがムハンマド(マホメット)です。彼は若い頃から商人としてその才能を発揮してきましたが、ある時当時の社会のあり方に疑問を持ちはじめ、一人洞穴にこもって瞑想にふけるようになりました。「なぜ人間は戦争や争いをやめようとはしないのだろう。ユダヤ教徒やキリスト教徒たちも含めて、多くの人々は神の言葉を誤解しているのではないか」と。

 そんなある日、ムハンマドの前に天使が現れ、「神の啓示をすべての民に伝えよ」と命を下します。その時からムハンマドは、自らを神の言葉を人々に伝える「預言者」であると自覚するにいたりました。こうして生まれたのがイスラム教なのです。

 ムハンマドの教えによれば、次のようになります。
 
唯一神(ユダヤ、キリスト、イスラム教はすべて一神教)

啓示


 

 
アブラハム    モーゼ    イエス  ムハンマド
(最後の預言者)
ユダヤ教キリスト教イスラム教
 
 「神はアブラハム以来、モーゼやイエスを預言者として神の言葉(啓示)を伝えてきたが、ユダヤ教徒もキリスト教徒も神の言葉を誤解しており、神の真意を伝えんとするため、ムハンマドを最後の預言者に指名した。」

 以上のように見ていくと、ユダヤ・キリスト・イスラムの3教は、みんな同じ神(唯一神)を信仰する兄弟宗教のようなものということがわかっていただけたのではないかと思います。

 また前回、エルサレムという都市がこの3つの宗教の聖地であると書きましたが、それはユダヤ教徒にとっては自分たちの神殿が存在する場所であり、キリスト教徒にとってはイエスが十字架にかけられた場所であり、またイスラム教徒にとってはムハンマドが昇天したと伝えられている岩があるところだからなのです。

2010年8月1日日曜日

四大文明

●エジプト(BC5000~1100年ごろ)
・ナイル川周辺
・太陽暦の発明
・1日=24時間の概念の誕生
・優れた測地術、建築術(ピラミッドなど)
・独特の死生観(ミイラ)

●メソポタミア(BC9000~1200年ごろ)
・現在のイラクとその周辺
・二つの川のあいだという意味(チグリス川、ユーフラテス川)
・大規模な都市の建設
・楔形文字
・太陰暦
・七曜制の使用
・60進法の使用
・同害報復の原則(ハムラビ法典)、身分差別的刑罰
・ワイン、ビールの普及
・鉄器の発明

●インダス(BC2600~1800年ごろ)
・現在のインド、パキスタン、スリランカ、ネパールあたり
・比較的小規模な都市
・整った水道施設、極めて計画的な都市設計
・神殿をもたない。代わりに(?)都市には必ず公衆浴場がある
・平等社会?(権力者の存在を示す痕跡が今のところ見つかっていない)
・戦争の痕跡が見つかっていない

●黄河(BC7000~BC771年)
・甲骨文字の使用
・占卜、呪術の発展
・現代の技術でも再現不可能と言われるほど精巧な青銅器の製作
・強力な権力機構(殷墟など)
・祖先神崇拝

●長江(BC14000~BC1000)
・「中国のルーツは黄河」と考えられていた常識を覆し、黄河文明よりも数千年誕生が早い。
・稲作の発祥地、日本や韓国の「米」はここが原点
・高床式住居
・黄河文明の甲骨文字よりも先に独自の文字持っていたとの意見がある。
・太陽と鳥を信仰

以上は「大河」を中心にその周辺で栄えた。大河の存在だけではなく、
大河が定期的に氾濫し洪水を起こすことで、農耕(小麦や稲作)を覚え、栄えていったと考えられる。


メソ・アメリカ文明
●マヤ文明(BC200~AD1697)
恐竜絶滅の原因とされる巨大隕石が衝突した場所、ユカタン半島
・青銅器や鉄器などの金属器をもたなかった
・生贄の儀式が盛んであった
・車輪の原理は、知ってはいたが、実用化できていなかった
・牛や馬などの家畜を飼育しなかった
・栽培したとうもろこしや木の実などが主食だった
・数学を発達させた(二十進法を用い、零の概念を発明した)
・文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた
・高度な建築技術を持っていた
・極めて正確な暦を持っていた(火星や金星の軌道も計算していた)
・セノーテとよばれる天然の泉により発展した
1697年、スペイン人に滅ぼされてしまった。

●アステカ文明(AD1325~1521)
・メキシコ中央高原に位置し、都市形成をテスココ湖中心とした。
・12世紀以前のオルメカ文明、テオティワカン文明、トルテカ文明を継承しており、メソアメリカ文化の最終期と考えられる。
・日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。
・精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。
・とうもろこしや芋類・豆類などの農産物が主食
・迅速な移動を可能にするため道路網を整備
・人口は数十万人に達し、都市は当時の世界最大級であった。
・コルテス率いるスペイン軍に滅ぼされてしまった。

●アンデス文明(BC14000~AD1532)
・海岸部、山間盆地、高原地帯を利用して発達。
・文字を持たない。
・鉄を製造しなかった。
・金や銀の鋳造が発達していた。
・家畜飼育が行われていた。
・車輪の原理を知らなかった。
・塊茎類(芋など)を主な食料基盤とする。
後のインカ帝国は1532年、スペイン人「ピサロ」により滅ぼされてしまった。

2010年7月30日金曜日

文明の衝突 : サミュエル・ハンチントン・1998年


冷戦による東西の衝突が終わった現代は、西欧文明、中華文明、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8つの文明が衝突する時代である。


普段何気なく戦前、戦後と言っているが、戦前の「大日本帝国」と戦後の「日本」は国家としては別の国家であることを、われわれはあまり意識していない。もっとも国家が違っても、領土、民族、文化などで核になる部分は重なっているし、昭和の元号も変わらなかったので、意識しないのも当然かもしれない。
ところでこんなふうに、筆者の頭脳には不向きなことをとりとめもなく考えているのは、ハンチントンの近著『文明の衝突と21世紀の日本』を読んだからである。
本書は新書版で手軽だが、内容的には大変なことが書いてある。構成は大きく3つに分かれていて、最初のパートのテーマは、冷戦時代とガラリと変わってしまった世界構造のなかで日本はどういう選択をするか、である。日本は過去、常に一番強いと思われる国に追随する戦略をとってきた。そして近い将来、中国が経済的にも軍事的にも強大になってきた時に、日本は、アメリカか中国か、追随すべき国の選択を迫られるという。

2番目のパートでは、唯一の超大国となったアメリカのとるべき戦略をテーマとしている。ハンチントンは、アメリカがパワーを保ち続けるためには、唯一の超大国であることをあからさまに押し出すべきではないとする。それをやると反アメリカ包囲網が形成されるという。

そして第3のパートでは、文明の衝突理論を簡明に説明している。1993年に発表されて世界的なベストセラーとなった『文明の衝突』を読んだ人も、もう一度本書のこの部分を読むと、今世界各地で起きている複雑な紛争の意味が理解しやすくなるだろう。

米ソ冷戦時代が終わって、世界各地で噴き出した紛争は、かつての国家間の紛争とは様相を異にした。いわゆる内戦とも違って、民族と宗教と文化が複雑に絡み合った国家横断的な戦争が始まっていた。『文明の衝突』はそういう時代の到来を鮮やかに予測していた。本書では、今起きている紛争を例に挙げて文明の衝突理論を解説しているのでよりわかりやすい。

国家とは別の枠組みで戦争が始まった。それは国家を超えて影響力のある文明間の対立だという。これからは、国家よりも文明の差異が世界の政治・経済構造では重要になるのだそうだ。ハンチントンは、日本を中華文明から独立した1つの文明としているが、それなら、あえて国家概念を明確にするより、曖昧は曖昧でそれを日本文明の特質とし、他文明との差異に敏感になった方がいいかもしれない。
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文明を規定するのは難しい。
文化であり、国であり、言語であり、宗教であり。

どんな時代にも、その時代に即したバランスの取り方があるだろう。
今の時代が、Uni-Multipolarシステムという、これまでにない国際情勢だとしても、だが、これだけは忘れてはいけない。
我々は、日本人であり、日本に生まれ、日本の文化・歴史を受け継ぐ者だと。
他国に惑わされる必要はない。

政経分離の人権無視国家・中国、古来より属国としてしか成り立つことができず、1980年代にもIMFの力を借りなければ財政を立て直すことができなかった陳腐な阿呆国家・韓国、言葉にもならないほどの下級国家・朝鮮。

これら、鼻くそのような国家の話を聞く必要はないのだ。
靖国神社には堂々と行くべきだし、竹島は日本の領土だ。
拉致のような、卑劣極まりない奇行をする腐乱国家には、容赦なく経済制裁・武力行使による制裁を徹底的に与えて、地面をなめさせてやればいい。
何なら、アジアを舞台に第三次世界大戦をやってもいいのだ。

アメリカに対しても、そうだ。
太平洋戦争のリベンジをしてもいい。


何にせよ、我々は日本人。
どんな文明の衝突が起きようとも、それだけは忘れてはならない。

司馬遼太郎2

◆『洪庵のたいまつ』

 世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
 ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
 緒方洪庵のことである。
 この人は、江戸末期に生まれた。
 医者であった。
 かれは、名を求めず、利を求めなかった。
 あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
 といって、洪庵は変人ではなかった。どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
 病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。
 かれの医学は、当時ふつうの医学だった漢方ではなく、世間でもめずらしいとされていたオランダ医学(蘭方)だった。
 そのころ、洪庵のような医者は、蘭方医とよばれていた。
 変人でこそなかったが、蘭方などをやっているということで、近所の人たちから、
「変わったお人やな。」
 と思われていたかも知れない。ついでながら、洪庵は大坂(今の大阪市)に住んでいた。
 なにしろ洪庵は、日常、人々にとって見慣れない横文字(オランダ語)の本を読んでいるのである。
 いっぱんの人から見れば、常人のようには思われなかったかもしれない。


 洪庵は、備中(今の岡山県)の人である。
 現在の岡山市の西北方に足守という町があるが、江戸時代、ここに足守藩という小さな藩があって、緒方家は代々そこの藩士だった。
 父が、藩の仕事で大坂に住んだために、洪庵もこの都市で過ごした。
 少年のころ、一人前のさむらいになるために、漢学の塾やけん術の同情に通ったのだが、生まれつき体が弱く、病気がちで、塾や道場をしばしば休んだ。
 少年の洪庵にとって、病弱である自分が歯がゆかった。この体、なんとかならないものだろうかと思った。


 人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
 少年時代の洪庵も、そうだった。かれは、人間について考えた。
 人間が健康であったり、健康でなかったり、また病気をしたりするということは、いったい何に原因するのか。
 さらには、人体というのはどういう仕組みになっているのだろう、というようなことを考え込んだ。
 この少年は、ものごとを理づめで考えるたちだった。
 今の言葉でいえば、科学的に考えることが好きだったといっていい。
 少年は、蘭学特に蘭方医学を学びたいと思った。 
 幸い、この当時、中天遊(1783~1835)という学者が、大坂で蘭方医学の塾を開いていて、
 あわせて初歩的な物理学や化学につても教えていた。
 少年はここに入門した。主として医学を学んだのである。
 中天遊からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸へ行った。二十二才のときであった。
 江戸では、働きながら学んだ。あんまをしてわずかな金をもらったり、他家のげんかん番をしたりした。
 そのころ、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1848)という人だった。
 ついでながら、江戸時代の習慣として、えらい学者は、ふつうその自たくを塾にして、自分の学問を年わかい人々に伝えるのである。
 それが、社会に対する恩返しとされていた。
 洪庵は、坪井信道の塾で四年間学び、ついにオランダ語の難しい本まで読むことができるようになった。
 そのあと、長崎へ行った。
 長崎。
 この町についてあらかじめ知っておかねばならないことは、江戸時代が鎖国だったことである。
 幕府は、長崎港一カ所を外国に対して開いていた。
 その外国も限られていて、アジアの国々では中国(当時は清国)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。
 そういうわけで、長崎にはオランダ人がごく少数ながら住んでいたのである。

 もう少し鎖国について話したい。
 鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。
 長崎は、箱の中の日本としては、はりでついたように小さなあなだったといえる。
 その小あなからかすかに世界の光が差しこんできていたのである。
 当時の学問好きの人々にとって、その光こそ中国であり、ヨーロッパであった。
 人々にとって、志さえあれば、暗いはこの中でも世界を知ることができる。
 例えば、オランダ語を学び、オランダの本を読むことによって、ヨーロッパの科学のいくぶんかでも自分のものにすることができたのである。
 洪庵もそういう青年の一人だった。洪庵は長崎の町で二年学んだ。


 二十九才の時、洪庵は大坂にもどった。
 ここでしんりょうをする一方、塾を開いた。
 ほぼ同時に結こんもした。妻は、八重という、やさしくて物静かな女性だった。
 考え深くもあった。八重は終生、かれを助け、塾の書生たちからも母親のようにしたわれた。

 洪庵は自分の塾の名を適塾と名付けた。
 日本のきんだいが大きなげき場とすれば、明治はそのはなやかなまく開けだった。
 その前の江戸末期は、はいゆうたちのけいこの期間だったといえる。適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つになったのである。

 すばらしい学校だった。 入学試験などはない。
 どのわか者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。
 江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校は、いっさい平等だった。
 さむらいの子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。
 ここでは、「学問をする」というただ一つの目的と心で結ばれていた。
 適塾においては、最初の数年は、オランダ語を学ぶことについやされる。
 先生は、洪庵しかいない。
 その洪庵先生も、病人たちをしんりょうしながら教える。
 体が二つあっても足りないほどいそがしかったが、それでも塾の教育はうまくいった。
 塾生のうちで、よくできる者ができない者を教えたからである。
 八つの級に分かれていて、適塾に入って早々の者は八級とよばれる。
 一級の人は、最も古いし、オランダ語もよくできる。各級に、学級委員のように「会頭」という者がいる。
 塾生全部の代表として、塾頭という者がいた。
 ある時期の塾頭として、後に明治陸軍をつくることになる大村益次郎がいたし、
 また別の時期の塾頭として、後に慶應義塾大学のそう立者になる福沢諭吉もいた。

 適塾の建物は、今でも残っている。場所は、大阪市中央区北浜三丁目である。
 当時、そのあたりは商家がのきをならべていて、適塾の建物はその間にはさまれていた。
 造りも商家風で、今日の学校という感じのものではない。門もなければ運動場もなく、あるのは二階建てのただの民家だった。
 その二階が塾生のね起き場所であった。そして教室でもあった。
 塾生たちは、そこでひしめくようにしてくらしていた。夏は暑かったらしい。
 先に述べた福沢諭吉は、明治以後、当時を思い出して、
 「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。
 目が覚めれば本を読むというくらしだから、適塾にいる間、まくらというものをしたことがない。夜はつくえの横でごろねをしたのだ。
 という意味のことを述べている。

 洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。
 その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。
 医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。
 そういう洪庵に対し、幕府は、
 「江戸へ来て、将軍様の侍医(奥医師)になれ。」 ということを言ってきた。
 目もくらむほどにめいよなことだった。奥医師というのは、日本最高の医師というだけでなく、その身分は小さな大名よりも高かったのである。
 つまり、洪庵の自分へのいましめに反することだった。 洪庵は断り続けた。
 しかし幕府は聞かず、ついに、いやいやながらそれにしたがった。

 洪庵は五十三才のときに江戸へ行き、そのよく年、あっけなくなくなってしまった。
 もともと病弱であったから、わかいころから体をいたわり続け、心もできるだけのどかにするよう心がけてきた。
 ところが、江戸でのはなやかな生活は、洪庵の性に合わず、心ののどかさも失われてしまった。
 それに新しい生活が、かれに無理を強いた。
 それらが、かれの健康をむしばみ、江戸へ行ったよく年、火が消えるようにしてなくなったのである。

 振り返ってみると、洪庵の一生で、最も楽しかったのは、かれが塾生たちを教育していた時代だったろう。
 洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。
 かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。
 弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。
 やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。
 後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

司馬遼太郎1

◆『21世紀に生きる君たちへ』

 

 私は歴史小説を書いてきた。
 もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
 歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
 と、答えることにしている。
 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
 だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
 この楽しさは、・・・・もし君たちさえそう望むなら・・・・おすそ分けしてあげたいほどである。


 ただ、さびしく思うことがある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。
 君たちは、ちがう。
 21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。


 もし「未来」という町角で、私が君たちをよびとめることができたら、どんなにいいだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
 だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
 もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
 ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。


 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
 そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。


 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
 人間は・・・・繰り返すようだが・・・・自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
 このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
 この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。 ・・・・
 人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思い上がった考えが頭をもたげた。
 20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。


 同時に、人間は決しておろかではない。
 思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
 ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
 20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
 おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。


 「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
 と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
 このかんがえは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。
 そういう素直さを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
 そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。
 そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。
 そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。


 さて、君たち自身のことである。
 君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。 ・・・・
 自分に厳しく、相手にはやさしく。 という自己を。
 そして、すなおでかしこい自己を。
 21世紀においては、特にそのことが重要である。
 21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
 科学・技術がこう水のように人間をのみこんでしまってはならない。
 川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。


 右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。
 人間は、助け合って生きているのである。
 私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。 
 そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
 原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
 それがしだいに大きな社会になり。今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。
 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
 このため、助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
 他人の痛みを感じることと言ってもいい。
 やさしさと言いかえてもいい。
 「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」


 みな似たようなことばである。
 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
 根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
 その訓練とは、簡単なことである。
 例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。


 鎌倉時代の武士たちは、
 「たのもしさ」
 ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。
 人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。


 もう一度繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。
 それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。
 以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。


 君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない
 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
 私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
 書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。


2010年4月7日水曜日

latin語由来その1


独奏 solo ソロ
二重奏 duet デュエット
三重奏 torio トリオ
四重奏 quartet カルテット
五重奏 quintet クインテット
六重奏 sextet セクステット
七重奏 septet セプテット
八重奏 octet オクテット
九重奏 nonet ノウネット